VOICE・5


私は、6歳のときに激しい腹痛に襲われました。虫垂炎との診断を受け手術をしています。
あくまで推測ですが、このときがFMF発症ではなかったかと思われます。

振り返ってみれば、子どもの頃から熱を出しがちでした。
ただ、当時(小学生時)の私は、公害病としての喘息も患っていて、発熱はその影響とみなされていました。
この時代の喘息治療は、どんなに苦しくても運動を続けることでした。とにかく心肺と精神を鍛え上げろというスポコン全盛期です。
私もサッカーやラグビーをやってきました。熱が出ても体温計を使うな、というのが指導者の方針でした。

また当時の担任も、周期的に学校を休む私をなじりました。
学級委員をしていたので、「学級委員が嫌だからずる休みしているんだろう」と責められました。
我慢して登校すると、「熱をおして登校するんだから偉い!」と褒められる始末。熱が出てもギリギリまで我慢する。体温計を見ると精神的に一気に具合が悪くなるから、体温計は使わない。
苦しければ苦しいほど、喘息治療の効果がある。精神が弛んでいるから具合が悪くなる。
これが、私が小学生のときに誤って刷り込まれた認知(考え方)です

こうして中高大と運動を続け、周期的な発熱を誤魔化しながら1020代を過ごしました。
それでも発熱で欠席・欠勤すれば、「運動しているクセに身体弱いんだね」と、学校でも、職場でも、嫌味や皮肉を言われ続けました。

また、いわゆる小児感染症(麻疹、水疱瘡)を患うと中々治らず、こじらせることもしばしばありました。
18
歳でおたふく風邪を患ったときは、睾丸炎を併発し入院しました。

FMFの合併症の症状が顕著になってきたのは、33歳のとき。今から12年前の2003年のことです。

左側の睾丸が萎縮し、蹴りあげられるような激しい痛みが朝方(午前3時4時)に襲ってきます。
めまいと吐き気に悩まされます。37度台後半の発熱が続きます
体温が37.5を下回ることがありません。
発作の痛みとともに、40度近くまで熱がはね上がり、直ぐに37度台に戻ります。
今思えば、FMFによる精巣しょう膜炎らしかったのですが、このときは分かりませんでした。

泌尿器科を中心に何件も、病院をたらい回しにされました。しかし、どこの病院に行っても、何の検査を受けても原因不明です。
突発的な発熱、微熱についても分からないを繰り返すだけ。
18
のときのおたふく風邪の影響やら、色々云われましたが、結局は原因不明でした。

「睾丸の萎縮は認められるが、痛みや吐き気・めまいとの因果関係がわからない。デリケートな部分だから、精神科を受診してはどうか」
医師たちは、判を押したように繰り返しました。
結局、睾丸というデリケートな部分のことだからと、心因性の問題にされました。 疼痛や不調を訴えても原因が分からない患者さんを「プシコ」と呼んで精神科や心療内科にまわすそうですが、まさに私がその「プシコ」扱いでした。

医師の勧めで精神科(心療内科)の門を叩いたところ、「うつ病」と診断されました。確かに、男性性の喪失や原因不明の疾病、仕事に影響が出てきたことなどで抑うつ状態ではあったと思います。
抗うつ剤、抗不安薬、睡眠導入剤との長いつきあいが始まりました (これらの薬物のほとんどが、ベンゾジアゼピン系薬物:以下「ベンゾ」です)
また、あわせて休職をするようにいわれました。

痛みや発熱の不快感が、向精神薬剤で解消されることもありません。
元々、体育会の大酒飲みということもあり、アルコールで痛みや発熱、疼痛、不快感を誤魔化す日々が続きました。
やりきれなさから、朝から酒を飲むようになり、アルコール依存症になっていきました。

あくまでも、私の側の言い分、言い訳ですが、

30代で、生殖器の萎縮を因とする男性性の否定。それは女性でいえば、片側の乳房がなくなって、痛み、めまい・吐き気に襲われて、原因不明で精神科に行け!と言われたようなものです。
また、責任を持って任されていた仕事を降りる事になった、その空しさ。
そういった私自身の弱さが、アルコールに走らせた一因でもあります。

どんなに薬を飲んでも、FMFの症状が治まる事はなく、アルコールを飲んで誤魔化し続ける。でも、うつ病と診断を受けたから、ベンゾ系薬物は真面目に飲む
精神科医としては当たり前ですが、医師はアルコールの問題ばかりを口にする。
FMF
の症状を訴えると薬が増やされる。でも、痛みも吐き気も軽減されない。原疾患がうつ病ではないので効くわけがないのです。

次第に、ベンゾ系薬物とアルコールによる幻覚・幻聴が出始めます。急に怒ったり謝ったりと自責他罰傾向が極端になり、人間関係に支障をきたします。
やりきれなくなり、さらにアルコールで発熱や疼痛、吐き気、人間関係の支障を誤魔化す悪循環の日々。

とうとう妻が息子を連れて家を出て行き、そのまま離婚となりました。
このときに断酒をして復職をしますが、FMFの症状が軽減される訳ではありません。
精神科医に症状のつらさを訴えると、やはりベンゾ系薬物が増やされます。そして、うつがひどくなっているからと再び休職となります。
家に独りでいるので、再飲酒の始まりです。
酔っ払って駅のガラスをぶち抜き、駅員に暴行を働き、略式起訴されたこともあります。
職場に迷惑をかけて、休職期間終了で退職。
友人たちにも同僚にも、多大な迷惑を掛けました。

アルコールとクスリとによる幻聴・幻想、認知の歪みが更に酷くなりました。
友人たちからは、この頃の私は、明らかに行動や言動がおかしかったと言われます。
未だに、元妻も元同僚も私のことを、うつ病でアルコールに溺れて、人生をダメにしたと思っていることでしょう。

その後、また再度断酒して再就職をしますが、その度にFMFの諸症状に襲われ、向精神薬が増やされ、結局仕事を辞めることに。
このときはアルコールを飲んでいませんでしたが、立派な薬物中毒でした。
更に幻聴や幻想に囚われるようになりました。
今、話題になっている精神科医の処方箋による薬物中毒、ベンゾ系向精神薬依存になっていました。

ベンゾ系向精神薬中毒、依存の怖さの一例です。
別れた子どもと会ったときに、「おまえが親だったら、子どもは一生苦労する。子ども抱えて、電車に飛び込め」との声、幻聴が聞こえました。
まだ10歳の子どもを駅に置き去りにしました。
「とにかく子どもを巻き込んではいけない、子どもから離れなければ」ということだけを覚えています。その後は覚えていません。
気が付いたら警察に保護されていました。
駅で裸になって電車に飛び込もうとしたところを、駅員に取り押さえられ、警察に保護されたそうです。
これが2010年のことです。
子どもの心に生涯消えない傷を植えつけました。決して埋め合わせが出来ることではありません。

警察に保護されたときに、実家が身元引受人になってくれて、私は実家にひきこもりました。
人の目が全て私を責めているようでした。
人と関わることが怖くて仕方ありませんでした。

死ぬつもりだったので、向精神薬を全部投げ捨てて、布団にくるまって震えていました。
薬物の禁断症状、幻想(妄想)に苦しんだのです。

禁断症状による幻想(妄想)を一つ挙げてみます。
私は某私大を出ているのですが「俺みたいな男が、あの大学に入れるわけない。知らぬ間に不正入学していたんだ。不正入学したあの2世タレントは俺の身代わりだ。サイレンが聞こえる。不正入学がバレて俺を捕まえにくる。捕まったらワイドショーで曝し者だ。子どもが可哀想だ。こんな生き恥を曝せるか。そうなる前に死のう!」
今なら笑い話ですが、当時は真剣に恐れて、死ぬ理由にしていたのです。
毎日、毎日、こんな幻想(妄想)ばかりです。
こういった禁断症状による幻想(妄想)は挙げてゆけばキリがありません。
いかに地獄の中にいたか、ということです。

思考回路、認知、全てが自分を否定することばかりでした。
「死ね!殺せ! !」と毎日毎夜怒鳴りまくりました。実家にいなければ自死していたかもしれません。事実、自死を何度か試みたこともあります。
生きることも死ぬこともできませんでした。

こうして2年強、薬が抜けるまで自責他罰の妄想地獄にいたのです。

2011年から、ひきこもり問題対応のNPOの支援を受けて、少しずつ外に出られるようになりました。
支援のおかげで、もう一度人生をやり直そうと思えるようになりました。
大手学習塾講師の内定も頂きました。こうして、一度は社会復帰をしようとしました。
ところが、その矢先に、FMFの諸症状が更に顕著になったのです。

左視野の半分が霧がかったようになり、欠けるようになりました。
左脚に疼痛が生じて、脚を引きずるようになりました。
手足に紅斑が生じるようになりました。
当時アルコール、ひきこもりの問題を相談していた担当保健師の薦めで、医師会主催の「神経難病相談会」に出席。神経内科の受診を勧められました。

2012年6月、地域の総合病院の神経内科を受診し様々な検査をするのですが、そこでも原因はわかりません。
他に視野狭搾のための眼科、睾丸痛もあったため泌尿器科、と複数の専門科を受診しましたが、いずれも原因不明でした。受診で時間を費やさねばならず、学習塾の内定は辞退しました。

ある日泌尿器科の先生が、全身症状であることや原因がつかめないことから、膠原病を疑ってくれました。
そうして、現在通院中でもある大学病院の膠原病・リウマチ内科につながることになりました。
2012
12月のことです。

診断当初は「多発性血管炎(疑い)」。
検査も兼ねて2ヵ月弱入院します。しかし、血管炎の治療をしても効果を成さず、他の疾病を疑っても該当しません。

2013年5月、遺伝子検査を実施することにしました。
4か月後の9月になってFMFの疑いを示唆され、コルヒチンを1mg/1日服用。
コルヒチン服用後に、それまで平均37.5以上あった体温が37前後に落ち着きました。
発作時以外は何とか動けるようになりました。

こうして、やっと、私の病気がFMF(不完全型)と判明したのです。
2013
10月のことでした。
FMF
と判明するまで10年の歳月を費やしました。

現在は、コルヒチンを1mg/1日。
発作時には2mg/1日を服用しています。
また、発作時には睾丸痛(精巣しょう膜炎)、腰下肢痛(関節炎症)、心痛(心膜炎症)が生じるため、ロキソニン、ボルタレン座薬を対処的に服用しています。

発作は3~4週間ごとに疼痛を伴う38前後の発熱として現れます。発作は1週間ほど続きます。この間はひたすら寝て耐えています。
心痛が酷いときは、死の恐怖です。定期的に心臓の精密検査を行なっています。

左眼視野狭窄は、回復しません。左聴力の低下も現れています。
言っても仕方のないことですが、睾丸痛に悩まされた10年前からコルヒチンを服用していれば、ここまで酷くはならなかったのではないか。医師にも、そう云われています(そんなこと言われてもですが…)

アルコールですが、断酒のための自助グループ(AA)に通っています。
タバコも止めました。
疼痛で眠れない夜も、ベンゾ系睡眠導入剤を処方されることを嫌い、精神に作用する薬物とは距離を置いています。

日々の生活ですが、お陰さまで私をひきこもりから脱してくれたNPOで、今、職を得ています。
病に理解があって助かっていますが、収入は充分ではなく、医療扶助にて生活保護を受給しています。
福祉事務所のケースワーカーは、何の社会制度も適用できない難病だからと、生保受給継続には理解を示してくれています。

現在、大学病院の膠原病内科を主とし、併せて同大学病院の眼科、耳鼻科、皮膚科、腎臓内科を受診しています。
発作時には地域の総合病院へNSAIDs等の投薬を求めることもあります。
疼痛時に歯をくいしばるせいか、歯科にも通っています。疼痛時には、マウスピースは欠かせません。
左視野狭窄の影響か、肩から脚にかけてまるで固い板があるかのような張りがあり、整体にも通っています。

こういった中で、周期的な発作を受け入れつつ、あるいは悩まされ、NPOでの業務に従事し、アルコール問題の自助グループに参加しています。
これが私の今の生活です。

私自身の責任でもありますが、FMFと分からなかった頃は、家族や仕事、持ち家、社会的信用など多くを失いました。
しかし、FMFと判明して、その事実を受け入れようとする中で、またなにがしかを得ようとしています。

心膜炎症による心臓への影響もあって、いつハートアタックで天に召されるや知れません。
腎臓の機能低下も示唆されています。その恐怖がないといえば嘘になります。


今は穏やかにどう日々を過ごすか、今日一日の積み重ねを大切にと思う日々です。



( 家族性地中海熱 ・ 男性 )